京極 清子
(2006年9月9日リーガルロイヤルホテル京都での講演から)
・・・・・私はこの病気をわがまま病と名づけていた。夜の飲食業(大阪北新地。京都祇園のトップクラスの高級クラブ)を経営している時も御客様、従業員達に出来る限りこの病気を理解してもらい、周囲から見守って頂かないと、この病特有の症状(ろれつが回らなくなり、冷や汗が出たり、体中の節々が痛くなったり、節から節へ電気が走り、少しでも触れられたところが痒くなり赤く膨れ上がる、金縛りに合う、朝起きようとしても、体が全く動かない、寝返りも打てない等々)が出て来て、抗核抗体が異常に数値を上げる。時にはコールタールの様な粘りこい汗が出、高熱を出す事もある。この時、医者の手段はプレドニン投与に頼るしかない。
病気の最中に知り合い、結婚に踏み切った私の主人はこの病を一から理解して共に歩み続けた。御客様、従業員と私がたまたまぶつかり合った時など「ママは正常でなく病気が言わせている言葉なので皆様、許してください」と言って頭を下げ廻って私をかばい、決して前には立たず後を歩んで下さったお蔭で、数値は高いものの症状に出る事はほとんど無かった。
この良き理解者であった主人も結婚後、僅かの年月で・・・それも医者の医療ミスで、たった37年と数ヶ月という短い命を落としました。この時、私の主治医は言いました。「無くなったご主人には非常に気の毒な事をした。でもこの非常時をどうやって乗り切り抜くかが問題だ。膠原病が暴れる絶好のチャンスにもなる。喪主も努めなければならないだろうが、すべて冷静に他人事だと思って行動しなさい。」と言われたがそうはいかなかった。狂ってしまった。
後を追う様に一時期失明に近い状態になり東京のある大きな総合病院へ行った。目が見えなくなった時もそこの眼科医で診察を受けた。医者は「全て焦点も合っているし、悪い所も無い。ただ世の中を見たくない、生きることを拒否しているだけ・・・膠原病患者なので何があってもおかしくないので何とも言えない。時期を待ちましょう。」とおっしゃった。
主人と共に生活した家を離れなければ自分自身を取り戻せないと思い、東京へ暫く滞在した。東京にはその頃一番信頼していた友が居り、息子が居り、姉が居りました。皆が一緒に励ましてくれて、目が見える様になるには時間はいらなかった。周囲の愛だけで治った。
約一年間、夫の追悼、自分の納得の為に店を続けた。夫が愛の印に残してくれたもので、病を治さなければならない私が元気になって一人でも生きて行ける事を望んでいたはずだと私は思った。治療方法も1980年発病の時と変わっていない。
プレドニン(薬の中でも使い方が最も難しいものの一つと言われている)を服用すれば、骨はバラバラ、階段で足を滑らせても膝のお皿が割れる、満員電車に乗って肘鉄を当てられても、あばら骨が折れるので外出禁止と発病直後の総合病院で言い渡されていた。
この頃はプレドニンを多量に服用していた。それに体全身に吹き出物、特に顔や背中等は集中的に体重の異常な増加、顔は満月状(ムーンフェイス)等、数々の症状が出て苦しみ続けた。
実は、私はプレドニンという薬は100日間の入院中と東京のその病院へ行く迄の間だけ服用していた。病院では京都に帰ってはいけない、直ちに入院宣告を受けた。なぜなら骨がバラバラになっているから電車に乗る事さえ危険だと言われ、ましてこの薬によって臓器全てが働いているので止めてはいけませんとすごく怖い事を言われて、逃げて帰ってきて、10錠ほど毎日飲んでいた薬を少しずつ減らし、1ヶ月程ですべて切った。医者に内緒で・・・ずいぶん危険な事をしたと思っている。絶対に直して見せるという気持ちを持って・・・。
この薬を続けていたら今日の私は無かったと思います。
そこで私は決心した『医者が治せない病は自分で治すしかない』
昔から色々聞かされてきた・・・医者が今の様に多く居なかった時代は病人は湯治と言って温泉を利用していた事を書物でも知った。そして私は北は北海道から南は九州、屋久島、沖縄まで、温泉と名の付く温泉、湯治場という湯治場を廻り歩いた。そして北海道は川湯に一軒、秋田県は玉川に一軒、群馬県は万座に一軒見出しました。その中でも群馬県に有る万座温泉がより優れた効能を持っていました。何よりも癒しの条件にピッタリでした。
標高1,800mに在る9つの湯、中でもラジウム温泉が私の病には一番合った様でした。
夏涼しい、冬暖かい、澄んだ空気、手を上げればすぐにでも届きそうなお星様、満天の夜空の下の露天風呂・・・心の癒しが全ての病をも癒すのです。
お食事は「まごわやさしい御膳」(まめ、ごま、わかめ、やさい、さかな、しいたけ、いも)全てが健康に配慮した天然素材です。通い初めて5年位で血液検査の結果に、抗核抗体の数値が下がって「特定疾患医療受給者票」を受け取る申告者の数値に値しなくなりました。それから現在に至っています。
医学的には認められないこの講演を前にして、私の発言が主治医にご迷惑をお掛けしてはと思い、お話しをしました。「医学的には全快の無い病に私は、9月9日(土)リーガルロイヤルホテル京都において講演します。テーマは『膠原病に打ち勝って』です、どうでしょうか?」との質問に対し、先生はおっしゃられました。「医学会ではその様な講演はできないが、京極さん貴方は医者ではない。全くの素人だ。自分自身が経験し、思った事は素直に飾らないで発表し、病気で暗い人生を歩んでいる人に、こんな人生を歩んだ人間もいる事を告白し、希望を持たせてあげて下さい。私は反対しない、良い事だと思う。貴方だから出来る事だ。」と言って下さいました。
私がここで伝えたいのは病は医者に任せず、自分で治せと言う事です。誤診のある今日、点滴液の間違え、投薬の間違え・・・人任せではいけません。薬を沢山もらっても自分自身で、体調によって加減する事をお忘れなく!!病院で何時間も待たされても、検診してもらうのは数分、ないし数十分です。でも自分自身の体とは24時間お付き合いしているのです。自分の体調は自分が一番判っている筈です。怖がらずに自身の体調は自身の管理下に置いて下さい。
3分の2は自身で、後の3分の1をお医者さんに相談なさって助言してもらい、自身では手に入らない薬を手に入れて下さい。自身の病気について色々研究してみてください。
病は人の手でなく自身の手と気持ちで治してください。
病は気からとも申します。時には神にも頼って下さい・・・。
| 略歴 | ||
| 1947年6月 | 大阪府守口市に生まれる。 | |
| 1965年6月 | 結婚(18歳) | |
| 1967年10月 | 男子出産(20歳) | |
| 1970年 | 離婚 | |
| 同年 | 北新地クラブに就職 | |
| クラブ「多慶家」誕生 | ||
| オイルショックにより閉店、京都へ | ||
| 京都にてしばらくクラブに就職 | ||
| 1980年 | 膠原病発病(33歳)(世間で言う厄年) | |
| 1981年 | 祇園、花見小路新橋クラブ「多慶家」誕生(35歳) | |
| 1988年 | 再婚(41歳) | |
| 1991年 | 夫死亡(享年37歳) | |
| 後、亡夫の意思を継いで、1年後の6月17日まで、営業後閉店。 | ||
| 日本全国の温泉を廻り始める。 | ||
| 1995年 | 万座温泉を初めて知る(48歳) | |
| 2000年 | 血液検査、抗核抗体数値が下がる。 | |
| 2006年 | 現在に至る(59歳) | |
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クラブ「多慶家」時代
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| 温泉廻り時代 | 初めての万座温泉ホテル (1995年) |
癒されて |
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